資料出典紹介

 
「資料一覧(目次)」の通り、本稿では古文書の内容によって全体を八部に分けた。「○○家文書」の多くは、測量事業のさまざまな段階と内容を含んでおり、本書ではそれぞれ該当する部に分かれて登場することになる。そこで初めに、各古文書の所蔵者などを簡単に紹介する。

□「新続跡覧」(永青文庫)
永青文庫が所蔵する「細川家旧記・古文書分類目録」の「熊本領関係―編年史・年表・目録」の最初に「跡覧、続跡覧、新続跡覧」の順で出ている。同目録記事には「藩府治績を編年的に列記した記録の分類総覧。奉行所日記其他の記録から輯録したもの」とある。
 本資料集は基本的には「地方(じかた)」文書集であるが、公儀(御用)測量事業の全体像(證文や通達事項)を把握する必要から、この「新続跡覧」から四点を選んで収載した。あくまで筆者の管見での選択である(「新続跡覧」は熊本大学附属図書館に受託・保管されている)。
 このうち資料五(2)の出典は上妻文庫である。上妻文庫は上妻博之(まさゆき)氏=植物学者、郷土史研究家。1879年生~1967年没=の著述集で、貴重な古文書を書写したことで知られる。書写された多くの「新続跡覧」から一件を取り上げ、熊本県立図書館蔵の書写原稿(複写)の写真を添えた。原書ではなく書写本を釈文したので、出典は「上妻文庫」とした。
   

□「六車(むぐるま)家文書」(芦北郡津奈木町)
 六車家は芦北郡津奈木町岩城に連綿と続く家柄である。文書管理者は六車不二子氏(元津奈木町長夫人)。
 岡松荘一郎氏(郷土史研究家)」によれば、文化7年当時、六車家は津奈木手永の地侍。同家に残された文書は「武士編」「庄屋編」「今出屋編」に分けられ、さまざまな内容を含む。この中の「武士編」に肥後藩測量術師範の門弟だった六車文太の記録がある。
 本資料集では「薩州…為聞繕被差出ニ付御達申上候覚」(薩摩での事前調査に派遣された結果報告書)の中から「郡代の出立命令書」「聞繕結果の報告書」「鹿児島年寄中よりの書付」を収録した
 興味深いのは、郡代が六車文太に出立を命じた際に持たせた、池部長十郎の伊能宛書簡及び後日、伊能から長十郎宛に届いた書簡の双方が六車家に残ったこと。この貴重な二通は第二部に収載した)。

*六車家文書は近くに住む岡松荘一郎氏らが内容別に分類し、紙袋ごとに六車家に整理保管されてある。近隣市町の有志でつくる七浦古文書会(岡松荘一郎代表)は平成11年から「芦北郡史料叢書」と銘打って郡内の古文書解読に取り組み、その「第八集」(平成15年刊)で「六車家文書(三)」を取り上げ、文化7年の公儀測量関係文書を三部(「公儀測量方聞繕之覚」「薩摩往復道中日記」「公儀測量方同道日記」)に分けて釈文している。また岡松氏は「津奈木町誌」(平成5年発行)で「六車文太 伊能忠敬の海辺測量を導く」と題して、同文書の内容を分かりやすい文体で紹介している。
 

□上田家文書(天草市天草町)  
 上田家屋敷は天草市天草町高浜に今も残る。現当主は15代上田萬壽夫氏。江戸時代から明治初期にかけての多数の地方文書と典籍が、敷地内の「上田陶石資料館」に保存されている。
 上田家は万治元年(1658)、第二代勘右衛門が高浜村庄屋を命じられて以来幕末まで、代々庄屋を勤めた天草の旧家の一つ。文化11年(1814)に発生した高浜の大火で、上田家(庄屋宅)をはじめ高浜村の中心部はほぼすべて焼失した。現在の屋敷(庄屋旧宅。国の有形文化財)は大火の翌12年に、第7代上田宜珍(よしうず)が再建した。
 この宜珍(源作、源大夫とも)が御用測量当時(文化年間)の庄屋で、かつ天文・算学に大いに関心があったことから、同測量に3カ月間も従事して一行の世話に奔走するとともに、多数、かつ詳細な測量関係記録を残した。伊能勘解由(忠敬)の厚い信頼を得て親交を得、後年、伊能と書簡をやりとりするまでになった。宜珍は郷土史「天草嶋鏡」の著作や、高浜焼(陶器)を商品化したことでも知られる。
 御用測量関係では「大庄屋二十四人測量方為御聞合御所浦へ参候名前書付」など10点があるが、本書では「測量方ニ付郡中申談頭書」と「測量方御廻浦一件中覚書」、「文化七年 天草郡中御測量方御巡廻日記」を取り上げた。  
このうち「測量方御廻浦…」の内容は多岐多様である。(1)測量隊が出した「先触」と幕府御證文写し、(2)事前に調べ上げておく「書式雛形」、(3)郡内の庄屋・大庄屋の申し合わせ事項、(4)豊後髙松で事前に調べた測量隊に関する情報(写し)、(5)小島のもめ事に関する上申書―などである。
(1)と(2)は第一部に、残りは第三部ほかで取り上げた。
 
 
□徳永文書(玉名郡南関町)
 徳永文書は宝暦年間から南関郷庄寺村の庄屋を務めた徳永家に代々伝わった文書で、御用測量があった文化7年~9年ごろは徳永太兵衛が庄寺村庄屋を、弟の平左衛門が手永横目役を務めていた。
 徳永家の先祖は平安時代に都から大宰府に来たらしい。その子孫が玉名郡庄寺村(現玉名郡南関町庄寺)に移り住み、宝暦8年(1758)12月、太兵衛が庄寺村庄屋を任ぜられた。以来、明治3年(1870)の庄屋制廃止まで百十余年、徳永家は庄寺村及び近隣の庄屋や南関会所詰め、中富手永惣庄屋で代官兼帯などを務めた(以上は「徳永家由来書」による。戸主は徳永ヨシ子氏)。
 同家に残る古文書は家系図(文政13年=1830)などのほか土地証文類や日記帳など広範囲に及ぶ。このなかに御用測量関係文書が含まれていて、「南関町史」編纂で同文書を活用したのを機に、今は町教育委員会が管理・保存している。
 御用測量に関する村々の作業内容と接待の綿密な記述という点で「貴重な史料」「非常に珍しい」として「南関町史 通史・上」(平成18年3月刊)は同文書から「南関手永の対応」と「「測量方役人衆への返答覚書」の読み下し文を掲載している。本資料集でもこの2件を取り上げた。

□鹿子木(かのこぎ)維亮著「測量御用諸日記」(八代市鏡町)  
 「文化七午九月 測量御用諸日記」の表題がある。文化7年9月から八代郡(高田、野津、種山の三手永)で行われた御用測量を手伝った鹿子木維亮が書き残した日記で、「鏡町史」(昭和57年11月刊)が取り上げている。
 本資料集では、日々の測量と昼食、応接、宿などの日記は原則として省き、八代郡外の宇土郡郡浦(こおのうら)の測量手伝い(予定外か)も含めて、興味深い記録を選んだ。最末尾の「覚」に、江戸出発時の隊員の住所や身分が記してあるので、その記録も転載した。
*鹿子木維亮の出自について「鏡町史」は一切触れていない。八代郡の新地開拓で著名な鹿子木維善(量平)、維資(謙之助)の一族と思われるが、同町史や関連書籍から確認できなかった。
*この「測量御用諸日記」の原本を閲覧・写真撮影したい旨を八代市文化振興課(八代郡鏡町はその後、八代市と合併)に打診したが、鹿子木家も含め「原本は所在が確認できない」とのこと。やむを得ず「鏡町史」から引用・転載した。「鏡町史」の執筆者(当時鏡町在住)によれば、鹿児島大学の増村宏教授(当時)の写本を元に同人が郷土誌に連載した記事を、同町史に転載した―とある。


□「尾跡(おあと)地蔵講帳」(熊本市西区河内町)
 「尾跡」は地名(字名)で、現在の河内町船津(江戸時代は飽田郡五町手永尾跡村)の一集落である。同集落には、江戸時代中・後期以降、地域の出来ごとを、昭和30年代まで代々の書き役(百姓頭など)が書き継いできた三種類の帳面が残されてきた
 このうち文化5年(1808)以来書き継がれた「尾跡地蔵講帳」に未年(文化8年=1811)の記事があって、最初のページで前年12月のことに触れていて、それが「伊能忠敬測量隊」の記事である。
 短文だが、当時の農村集落の対応ぶりなどが率直に記されてあり、本資料集に取り上げた。「河内町史」(平成3年刊)も収載しているが、若干、釈文に違いがある。(写真は「尾跡地蔵講帳」の表紙

□伊能忠敬記念館所蔵資料(千葉県香取市佐原)
 伊能忠敬記念館が伊能家から贈られた御用測量関係資料と道具類は一括して国宝に指定された(平成22年)が、そのなかには熊本藩内の人物が書いた文書や、藩校時習館の測量術師範・池部長十郎が作図した大判の絵図も含まれる。そこで同館の所蔵文書から、肥後領内の御用測量に関する文書3件と、池部長十郎が作成した芦北郡の色絵図2点を選んだ。
 文書の一つは「上田源大夫(宜珍)から伊能勘解由宛の書状」(国宝)である。これは上田家文書に含まれる「伊能勘解由から上田宜珍宛書状」と対をなしているので、第七部に並べて紹介した。ほかの2件は領地に関する“もめごと”で、第六部で取り上げた。
2点の絵図はどちらも縦1・5㍍余、横2㍍余の大作。容易に撮影できないため、同館が撮影した写真データを提供していただいた。
 

*□ほかに「嶋屋日記」(菊池市隈府)や熊本県立図書館蔵の「室原家文書」(阿蘇郡小国町)などがあるようだが、どちらも原本を閲覧できず(熊本県立図書館は熊本地震で被災し、資料類は平成29年3月末まで閉鎖)、本稿では触れることができなかった。熊本県内にはほかにも関係文書があることが推測されるが、「伊能忠敬没後二百年」(平成30年)の前年末までに発行することにしたため、区切りをつけた。