これは「池部啓太春常」出版のブログ風ページです。気ままに出版の裏話(著書では分からないドキュメントや調査・取材の実体験)や池部啓太の研究・著作にまつわる誤りなどをお伝えします。


■なぜ、池部啓太伝を書く気になったのか その1
 熊本は江戸時代の科学者(の歴史=人物伝)に光を当てていない(思想・人文に限定されている)という思いが長年ありました。あなたが幕末当時の人物で知っている熊本人を上げてみてください。そのなかに科学者が何人含まれていますか?
 ちなみに昭和19年4月に出た「先覚肥後の科学者」(佐伯清太著、二松堂)が取り上げている科学者は40人で、名刀で知られる延寿・同田貫一派から始まり、肥後最初の女医・長崎たきで終わっています。
 40人が生きた時代は鎌倉時代から昭和10年代まで。科学の内容を見ると刀工、治水、医術・薬学、農学、砲術、数理天文などから近代工学まで幅広い。このころまで(つまり戦前)は、それなりに科学者にも目が向けられていたことが分かります。
 40人のうち今日まで広く知られるのは加藤清正、細川重賢、布田保之助、横井小楠、松本喜三郎、北里柴三郎あたりでしょうか。

■なぜ、池部啓太伝を書く気になったのか その2
 この本(「先覚肥後の科学者」)のなかに池部啓太は「天文、数理、砲術の大家」として取り上げられています。発行の時期が太平洋戦争の真っ最中だけに、砲術の先達として、池部の評価は上々です。また、昭和57年発行の「熊本県大百科事典」(熊本日日新聞社)にも池部啓太は独立した項目で載っていて、11行の説明文が付いています。
 しかし、今、熊本県民で「池部啓太(春常)」「池部如泉」の名を知っている人がどれほどなのか。私が話を持ちかけた限りでは、知っていると答えた県民はいませんでした。県内の「池部姓」の人に問い合わせの封書を80通ほど出したときも「同姓にそんな偉い人がいたとは、まったく知りませんでした」と、わざわざ書き添えて返信してくださった人もありました。
 このように、池部啓太の名と業績がほとんど知られていない、知らせようとする動きもない。私にはそれが残念でたまりませんでした。だから、池部啓太のことを調べて、広く知らせたいと思い立ったのでした。


■何がきっかけで池部啓太を その1
 では具体的に、何がきっかけで池部啓太(如泉)のことを調べて書かねば―と思うようになったか、話しましょう。池部啓太について知りたい、調べたいと思ったきっかけは、次のようなことです。
 万延元年(1860)に幕府が派遣した米国使節団の従者の一人に、高瀬(現熊本県玉名市)出身の木村鉄太という侍がいました。先祖が海運や酒造業で財をなし、サムライ身分を獲得した豪商・木村一族の末裔です。
 鉄太は商売よりも学問が向いていたらしく、アメリカのペリー提督が浦賀沖に来て、日本に強引に開国を迫った嘉永6年(1853)6月前後に江戸に上ります。最初は昌平黌(東京大学の前身)で学びますが、そのうち洋学に関心を持ち、名の知れた洋学者に入門するだけでなく、その屋敷内に起居して洋学を学びます。
 さまざまな経過を経て、彼は幕府が派遣した万延元年遣米使節団(総勢77人)の一人に選ばれ、使節団のナンバー3(監察・小栗忠順(ただまさ)の従者9人の一人として参加することになりました。肥後藩主も渡航を理解し、彼に餞別金を持たせました。
 使節団は万延元年(1860)1月、アメリが差し向けた軍艦で太平洋を越えて米国に向かい、首都ワシントンで、使節団の主目的だった「日米修好通商条約」の批准書を交換したほか、米国各地を視察。アフリカ沖、インド洋経由で世界各地の港に立ち寄りながら、9ヶ月後に品川沖に帰国しました。
 帰国後、木村鉄太は江戸藩邸で、熊本藩の役人がおこなった2回の聞き取り調査に応じるとともに、百枚を超えるスケッチ絵を添えて、6冊の「航米記」として書き上げ、藩庁に提出しています(これは昭和49年、熊本市の図書出版青潮社から「万延元年遣米使節 航米記」として出版されました)。
 この聞き取り調査ですが、実は熊本藩庁の2回の聞き取りとは別にもう一人、個人的に木村鉄太から海外の軍事情勢などを直接、聞き取ることを許された人物がいました。それが池部啓太だったのです。

■何がきっかけで池部啓太を その2

 そのことについて筆者は「熊本藩士 木村鉄太と侍ネット」(平成21年発行、たまきな出版舎)で次のように書いています。それを引用して紹介します。

  三回目は「池部先生御小屋」で 
 鉄太が聞き取りに答える形で異国見聞を報告したのは、この二回だけではない。三回目がやや遅れて十一月一日にも行われた。その場所は「池部先生」の「御小屋」であることが次の文書(意訳)で分かる。
 十一月一日に池部先生の屋敷で木村鉄太に会って、つい先日(龍口の藩邸や手塚塾で)聞いた話の数々や、こちらから質問して答えてもらったことなどを聞き取って、物書役人の内藤貞八が書きとめた。(「細川家北岡文庫」文書=熊本大学附属図書館寄託本=から)
 二回目の聞き取りから二十日余り後である。場所は不明だが、鉄太の体調を考えれば江戸市中であることは間違いない。
 この「池部先生」だが、熊本藩の西洋銃砲術の祖といわれる池部啓太(本名春常)以外に考えられない。寛政九年(一七九七)生まれだから、このとき六十三歳。押しもおされぬ「先生」である  。
 藩の聴取が終わったにもかかわらず、鉄太に三度目の聞き取りを所望したのは、蘭学や洋学に相当関心を抱いていた人物だろうし、几帳面な物書役が「池部先生」の表記で済ませたのは、それだけで家中の者なら分かる人物だったから―と推測すれば、肥後熊本藩関係の「池部先生」は、年代から見て池部啓太に間違いないだろう。池部翁にしてみれば、帰国した木村鉄太から直接、外国の銃砲や国防について聞きたいとウズウズしていたはずだ。
 
 この「池部先生とは何モノ? 興味がわくなあ」というのが、私が池部啓太とつきあい始めたきっかけだった、というわけです。

■ご子孫探し その1

 「池部啓太」なる肥後の先達の調査を始めて最初にしたことは、人名辞典から「池部啓太」「池部如泉」を捜し出し、子孫につながる手がかりがないか―でした。そのうち分かったのが、熊本市稗田町の妙教寺(日蓮宗)に池部家の墓があること。
 そこで妙教寺を訪ねて、住職に事情を話し、墓を教えてもらいました。それが平成20年7月13日です。
 それから池部家につながる人を捜し探し求める作業が続きました。結論から言えば、ご子孫(当主)から、待ちに待った返信ハガキが私の手元に配達されたのが平成26年9月21日、電話口での話ができたのが9月30日、福岡市でご子孫に面談したのが翌日の26年10月1日でした。
 この間に、私が子孫に巡り会うためならと、恥も外聞もなく実践にしたことは、およそ次のようなことでした。

【講演会で】
 熊本市立図書館市民講座、公立病院協議会総会講演、紀伊国屋講座(青潮社・髙野和人氏の代理)、県民カレッジ講座、高瀬蔵夜噺講話(玉名市)、紀伊国屋書店熊本講座など。
 講話の内容は、市立図書館市民講座以外は池部啓太とはまったく関係ありませんでしたが、講演の最後に「どなたか池部啓太につながる情報をお持ちでしたら、ぜひ教えてください」と頼んだのです。結果は「ゼロ」でした。

【同人誌や会報で】
 私は玉名歴史研究会の同人で季刊「歴史玉名」を発行する手伝いをしています。また地元和水町のうち旧菊水地域で長年続いてきた「菊水史談会」の会員として「菊水史談会会報」を念4回、発行しています(平成29年3月で新編集長と交代)。
 そのなかで埋め草用のスペースが出ると「だれか池部啓太につながるご子孫や事物を知りませんか」と書いてきました。結果は「ゼロ」でした。

【墓地で見張りなど】
 「熊本市坪井にご子孫が住んで居られたはず」「最近もたまに福岡在住のご子孫が墓参りに来られるようですが、お堂には寄られません。花が新しくなっているのに気づいてそれを知るわけです」という妙教寺住職の話を手がかりに「池部啓太の命日の8月13日(お盆の初日!)、もしかして墓参りに見えるかも」と一日中、墓が見える墓地の隅で、弁当持参で見張りをしたこともあります。
 またビニール袋に入れた名刺を、花入れの裏に置いて帰ったことはたびたびでした(結果はもちろんハズレ。だいたい、140年前に死んだ先祖の墓参りにお盆に来ると考えるのがおかしい。来るならお彼岸でしょう!、と気づいたのは2,3年あとでした)。

【県内の「池部」姓へ手紙】
 最後の手段としたのが、県内の池部姓へ問い合わせの手紙を出すこと。平成25年3月でした。
 事情を説明する文に返信ハガキを添えて、約80通投函しました。宛先は近くの図書館で県内の全電話帳をめくって「池部姓」をコピーしたり書き写したり。ただし、同じ集落の一族と思われる宛先は3件か4件おきに投函しました。
 返信があったのは14通、「あて先に尋ねあたりません」で戻ってきたのが7通でした。結果は「ヒットなし」。しかし、この「宛先不明」で戻ってきた中に、宝があったのです。

■ご子孫探し その2
 以下、手がかりをつかんで池部啓太のご子孫に対面するまでの1ヵ月間の流れを、日記をもとに、ドキュメント風に綴ってみます。

【平成26年9月4日】
 郵便配達会社から「あて所に尋ねあたりません」で戻ってきた封書(平成25年3月投函)の束を、机の引き出しを開けたついでに何気なく、何度目かに見直す作業をしていたら、その中に宛名が「池部正子様」とある封筒が含まれていた(もちろん宛先を書いたのは筆者)。
 宛先は坪井5丁目●番地●である。池部正子? 池部正子! あわてて池部家墓石調査ノートを引っ張り出して広げた。
 「池部正子」とは、寄せ墓の建立者ではないか! 平成11年に亡くなった人ではないか! なんという見落とし! なんという大チョンボ!!
 大失態を恥じるのみ。「あて所に尋ねあたりません」だろうがなんだろうが、ここは実際にこの住所に自ら足を運んで調べるべし―、と即座に決意した。後ろ髪を引かれる思いで最終原稿の出稿を決意し、当初予定した出版社にデータ一式(目次から本文、写真、あとがきなど)を出して半月後のことだった。

【9月8日】 
 「坪井5丁目●番地●」を捜すため250ccバイクで坪井へ。近くの郵便局に出向いて●番地の区画を教えてもらい、徒歩でうろつき始めたら、やがて同番地同号に近い「味噌醤油製造・小売 K商店」の看板。
 家人を大声で呼んで「池部さん宅を探しているのですが」と言ったら、夫人が「すぐ西隣。でも無人。道路向かいのIさんがよくご存じですよ」というではないか。西へ20㍍移動したら、なんと「池部」の門札と木造二階建ての住宅があった。 
 ちゃんと宛先に家があるではないか! 「あて所に尋ねあたりません」とは何なんだ! あるではないか! と、日本郵便会社をどなりつけたい気分だった。
 K商店のおかみさんが気軽にIさんに声をかけてくれたら、幸運にも在宅。はやる心を抑えて事情を話すと「あ、池部さんならこんどのお彼岸に墓参りに来られるそうですよ」とおっしゃるではないか! 天にも上る気持ち。こんなこともあるんだ!

「とにかく何が何でもお会いするか、渡したいものがあるのですが」と話すと「お彼岸に来ると言うだけで、何日の何時になるかは分かりません。連絡先も存じません。私が預かって渡しましょうか。来られる日が事前に分かったらお知らせしましょう」とのこと。さっそく持参していた1年半前の調査ハガキ入りの封筒(予備が残っていた)を渡すとともに、電話番号入りの名刺を渡したことだった。

【9月23日】
 彼岸も中日。Iさんから連絡がないので、いたたまれなくなって、夕方こちらから電話した。「今日午前中、池部さんがお見えになりました。封書は確かに渡しましたよ。そのあとお寺さん(妙教寺)にいかれたと思いますよ」とのこと。
 本当に事前に分かっていなかったのだろうか。分かって教えてもらえたら、今日、運命の対面ができたはずなのに、と悔しさと安堵が半々だった。
 あとは返信ハガキが戻ってくるか、先方から電話なりが来るのを待つしかない。

【9月24日】
 この日、調べものがあって、軽四輪車で熊本市歴史文書資料室のある市役所花畑別館ビルへ。電車通りを横切ってビル裏にやがて着こうとしたとき(旧勧銀支店前)、携帯電話が鳴った。女性の声で「福岡の池部です。主人と替わります」。
 来た! 待ちに待ったご子孫からの連絡。これが、「池部啓太」調査開始から6年余り後の歴史的な!?会話だった。

 電車通りを右折し、花畑別館裏のコインパークへ車を乗り入れながら、「とにかく添えてある調査ハガキ(平田作成のアンケート用紙)を送ってください。詳しくはハガキを見た上で」と、興奮して頼んだ。

【9月27日】
 今日も池部さんからハガキが届かないので、夕方、こちらから携帯電話の着信記録に残る池部さん宅に電話した。先日の夫人が出て「あ、遅れて済みません。返信ハガキはけさ投函しました」とのこと。

【9月30日】
 きょう、福岡市南区□□●丁目●番地の池部Yさんから返信ハガキが届いた。9月23日に、坪井のIさんが渡してくれた封書に入れてあった返信ハガキで、27日の消印がついていた。
 6年前から探し続けていた池部啓太の末裔のお名前である。初めて見る筆跡と住所に感無量。下の回答欄を何度見つめたことか。
「1,ご先祖は池部啓太一族やその親類につながる可能性はありませんか?→
 ある
 2,自宅(又は指定先)へご挨拶の電話をしてもいいですか?→いい。自宅OK
 3,電話で日時・場所を決め、家族の誰かが私と会っていただくことできますか?→できる

 返信ハガキが着いたことを連絡するため、夕方6時過ぎ池部家に電話した。夫人が電話口に出て「主人はもう仕事はしていないので、福岡訪問はいつでもOK」とのこと。
 とにかく一日でも早くご挨拶をしたい―という思いを聞き入れてもらって、明日10月1日午前10時半、福岡市内の自宅を訪ねることで承諾を得た。
 「先祖のことは何も知りませんけど…」ということだったが、「とにかくご子孫にお会いすることが私にとって最大事なので」と必死にお願いした。

【10月1日】
 九州自動車道、福岡都市高速道を乗り継いで福岡市南部へ。午前10時、約束の時間に福岡市内の池部邸前に車を乗り付けた。直前に電話していたので、夫婦で門の前で出迎えてもらった。
 以後11時30分まで居間で3人で対談。その間に父、祖母、曾祖母の写真複写や昭和50年代のメモ書きのコピー取りなど。
 結論だけ言えば、江戸末期から明治初めのころの先祖の話(功績や災難)は何一つ、伝わっていなかった。当時の遺物や書類も何一つ、残されていなかった。(平成27年3月時点)

 

■証拠は一枚のメモだけ(子孫宅に残されたわずかな痕跡)

 池部啓太の子孫は福岡市内にお住まいである(池部姓の現戸主は昭和16年9月生まれ、平成27年現在73歳。しかし平成29年2月、福岡市内病院で死去されたことを同年4月、問い合わせた書簡に夫人から返信があって分かった)。
 7年余り探し回って、やっと子孫の居所を探し出し、初対面した顛末は、先に書いたとおりだが、戸主を前に「何か残っているモノは?」と尋ねて出てきた物証は、便せん1枚に鉛筆で書かれたメモ書きだけだった。
 メモしたのは戸主の実姉A子さん(平成16年7月、72歳で死去)で、メモした時期は昭和52年初め。熊本市中央区稗田町にある妙教寺境内にあった古い墓地を整理したときだという。
 古い墓石群の整理を思い立ったのは戸主の母(平成11年6月、88歳で死去)で、このとき、池部長十郎、池部啓太、池部春義の三代の墓石はそのまま残し、その他は合祀(寄せ墓にする)することにした。そこで、この3人以外の墓石が、どの場所にあったか記録しておこうということで、最年長のA子さんがメモしたのだという。
 メモによれば入口に5基、中ほどに2基、土手側に3基があって、合わせて10基の墓を合祀している。最も古い人物の没年が天保4年だから、池部啓太(没年は慶応4年=明治元年)の先祖である。最も新しいのは昭和20年7月に亡くなっていて、これが現戸主の実父である。
 このメモは確かに池部啓太の子孫でなくては書けないもので、それが現戸主の自宅に保管されていたという事実。このメモ書きと、墓地の合祀墓に刻まれた氏名(最近亡くなった人は俗名で刻まれている)を引き合わせ、さらに直近の3人の遺影が床の間にあったことから、間違いなく池部啓太の末裔であると判断できた。
 このメモ書き以外に「池部啓太の子孫である証拠」は今までの取材では何も残っていない。このメモ書きがなかったら、たとえ墓地を案内されたとしても、「間違いなく池部啓太の子孫である」と断定できなかったのではないか。そういう意味でh、実に貴重なメモ(便せん1枚)である。(平成27 年3月30日記)

■既刊本の誤り(獄中執筆の苦労に関する市販本・古書の記述の間違い)

 池部啓太に関する既刊本や評論(著述)で根本的な誤りは、①池部啓太が小伝馬牢に入れられた、②牢内で苦心惨憺して筆と墨を入手し、それで執筆した―の2点である。
 実際は池部啓太は一度も日本橋小伝馬町の牢には収監されていないし、従って執筆も、肥後藩江戸屋敷(御小屋)の一室で、あり余った時間の中で―どちらかといえば、執筆に集中するには恵まれた環境だった―。従って、これまで出された池部啓太に関する著述や論考は、この2点に関する限り、はっきり間違っている。
 そこでこの誤り―①小伝馬牢への収監と、②どのようにして筆墨を手に入れたか―の2点が、既刊本や資料にどう書かれているか、紹介する。

小伝馬牢への収監 
○池部如泉先生履歴書 明治10年10月13日付 牧多門助ら高弟9人編纂
此間先生(*池部啓太)冤枉(えんおう)ノ罪(*冤罪)ニ罹(かか)リ秋帆師ト同ク江都ノ獄に囚繋セラルルモノ五年

○武藤厳男ほか編「肥後先哲偉蹟(正・続)」(明治11年序文)「池部啓太小伝」838㌻
此間先生(*池部啓太)冤枉ノ罪ニ罹リ秋帆師ト同ク江都ノ獄に囚繋セラルルモノ者五年
*ただし、続く839㌻には「同十四年四月、江戸に送られ,藩邸に幽閉せられ…」とあり、牢に入れられたとは書いてない。

○有馬成甫著「隠れたる科学の先覚者 池部啓太」(「科学知識」昭和5年10月号)111㌻
 翌天保十三年、秋帆は江戸の獄裡に繋かるる運命となった。秋帆と功績を分かつべき啓太が亦秋帆と共に罪名を共にすることとなったのは自然の成行であった。即ち啓太も(略)との嫌疑で、幕府は熊本藩に命じて彼を逮捕し、江戸伝馬町の獄に揚屋(あがりや)入りを命ぜしめた。(*下級武士用の牢は「揚屋(あがりや)」と呼ばれた。)

○日蘭学会編「洋学史事典」(雄松堂出版、昭和59年)50㌻
 高島秋帆の獄に連累して江戸伝馬町の牢に入れられたが、獄中で三角関数表の『割円四線表』、弾道理論の『万道理原』を著した。

○石山滋夫著「評伝 秋帆」(葦書房、昭和61年)273㌻
 池部啓太については前にも書いたが、早くから「随身第一の門人」とまで呼ばれただけ、ついに秋帆に巻き添えをくらって足かけ四年も伝馬町の揚屋に入れられたのは気の毒である。

○有馬成甫著「人物叢書 高島秋帆」(吉川弘文館、平成元年)新装版99~100㌻
 天保十二年の徳丸ケ原演習が終り、翌十三年(一八四二)高島秋帆が江戸に押送せられると彼(*池部啓太)もまた連累の嫌疑を以て江戸に送られ、伝馬町の揚屋に入れられた。

収監への疑問指摘者
 これら従来の著述に多くの疑問があることを最初に指摘した県内在住者は、私が知る限りでは瀬戸致誠氏である。
 熊本県高等学校社会科研究会編「研究紀要 第一九号」(1989年3月発行)に同氏(当時鹿本高校教諭)が「幕末肥後藩西洋砲術家池部啓太に関する疑問点」を発表しているのがそれ。
 この論考の中で瀬戸氏は「池部啓太御吟味一巻」(永青文庫蔵)のなかの「池部啓太口書写(くちがきうつし)」など基本資料をもとに、「啓太に関するまったく基本的なことが不確かなままで、なおざりにされている」として、従来の著述の誤りをいくつか、明解に指摘している。
 「啓太が入牢したとするのは間違い」と断じ、「池部啓太は藩邸の一室に幽閉された」と初めて指摘したのは、私の管見では東北大学の吉田忠教授(科学技術史)である。
 市販本では2009年7月発行の「九州の蘭学 ―越境と交流―」(思文閣出版)に収められた吉田著「池部啓太―弾道学研究・測量術に秀でた算家」のなかに「同(*天保)一三年一〇月師秋帆が逮捕され、啓太も連座して翌年四月江戸送りとなった。町奉行鳥居燿蔵らから取り調べを受け、藩邸内の小屋に留置されていたが、弘化三年…」とある。即ち、啓太は牢には入っていない。
 論考では、同氏はその25年前(1984年)発行の「東北大学日本文化研究所研究報告 二十集」で、早くも「藩邸に幽閉」に触れている。このなかで同氏は「池部啓太口書写」をもとに「啓太を従来通り(下屋敷内の)小屋に留置して外へは出してはならぬが…」(天保15年7月)、「従来通り下屋敷内の小屋に留められ…」(弘化3年7月)などと指摘し、「以上の経緯を勘案すると、藩邸幽閉中の取り扱いは、獄中にあったという一般に言われる説ほど過酷ではなく…」と論じている。
 つまり、明治10年(1877)に高弟たちが記した「池部如泉先生履歴書」から始まった「池部啓太入牢」説が、1984年の吉田論考で間違いと指摘されるまで、実に107年かかった(市販本で一般人の目に触れるまでなら132年もかかった)のである。いったん歩き出したら、止まる(修正されるまでどれだけの時間がかかるか―、の端的な一例である。

「獄中の筆墨」は噴飯モノ
 池部啓太が伝馬町の牢獄に入らず、藩邸下屋敷に幽閉(といってもかなり自由な行動ができたはず)されていたなら、以下の記述はすべて噴飯モノであるのは言うまでもない。(引用に当たって、読みやすいように、漢字や送り仮名、句読点の一部を書き直した)
○池部如泉先生履歴書 明治10年10月13日付 牧多門助ら高弟9人編纂
 然ルニ獄中筆墨ヲ入ル々ヲ禁ス 獄中鼠多シ 先生髪ヲ抜テ蹄(わな)ヲ製シ 残飯ヲ地上ニ撒布シ羅シテ老鼠数尾ヲ獲タリ 以て筆毫ヲ造ル 墨ニ代ルニ竃(かまど)煤(すす)ヲ用ユ 

○武藤厳男ほか編「肥後先哲偉蹟(正・続)」(明治11年)838㌻
 然るに獄中筆墨を入るるを禁ず。獄中鼠多し、先生髪を抜いて蹄(わな)を製し、残飯を地上に撒布し、羅(あみ)して老鼠数尾を獲たり、以て筆毫を造る。墨に代るに竃煤を用ゆ。初め三角形法に基き割円四線表を製し、以て推算の用に備ふ。

○有馬成甫著「隠れたる科学の先覚者 池部啓太」(「科学知識」昭和5年10月号)111㌻
 獄中ではもとより筆墨を得ることが出来ない。茲(ここ)に於いて彼は一策を案出し、食物の余粒を舎の一隅に播(ま)いて鼠を呼んだ。餓鼠は忽(たちま)ちにこれに集まって舎内に出入りし、或者はその鬚(ひげ)を落として行った、又或時は自らの頭髪を抽(ひ)いて罠(わな)を作り、鼠の足を係けてこれを捕へ、其の鬚を抜いてこれを放ち遺(や)った。斯くして漸くにして鼠の鬚を集め、縛(ばく)して筆を作ることが出来た。又獄舎の食椀が多くは欠けているのを利用して之より些少宛(さしょうずつ)の髹(きゅう)漆(しつ)を掻き集めて之を研磨し粉末となし、水を加へて墨汁の代用品を獲た。

○佐伯淸太著「先覚 肥後の科学者」(二松堂、昭和19年発行)59㌻
然るに獄中には筆墨を入るる事が禁ぜられている。偶々獄中には鼠が多いので、氏自分の伸ぶにまかせた毛髪を抜いて罠を作り、残飯を地上に撒布して老鼠数匹を捕らえた。それで此の鼠の毛を以て筆の穂先となし、墨に代ゆるに竃の煤を以てし、以て塵紙に書き始めた。初め三角形法に基き割円四線表を製し、以て推算の用に備えた。

○有馬成甫著「人物叢書 高島秋帆」(吉川弘文館、平成元年)新装版100㌻
陰鬱な獄舎は窮乏と不如意との生活であった。筆・墨・紙を得ることは殆どできなかった。そこで一策を案出し、食事の余りを室の隅に播いて鼠を呼んだ。餓えた鼠はこれに集まってその鬚を落として行った。また彼は自分の髪毛を抜いて罠を作り、鼠の足にかけてこれを捕え、そのひげを抜いて放してやった。このようにしてやっと鼠のひげで筆を作ることが出来たということが伝えられている。また墨がなかったので汁椀の欠けているところから少しずつ漆を集めて之を粉にし、水を加えて墨汁を作った。そうしてこの筆と墨とを以て鼻紙に縷々(るる)数万言を綴って「割円四線表」を著した。

 この筆(鼠の毛)の一件と墨(汁椀の漆や竃の煤)の二点だけは、できるだけ早く削除してもらいたいと思うが、絶版になったモノはいかんともできない。せめて市場に流通したり、再版の可能性がある本だけでも、修正をしてもらいたいと痛切に思う。